見て感じること

 先日テレビで老人が「広島に来て(米大統領が)何も感じないのは有り得ない」という旨の発言をしていたが本当にそうか?政治的にはそうなのかもしれないが,それよりずっと以前に一人間としてはどうか。

 

 人が100人いれば感性は少なくともその5倍はあるだろう。5倍なんて数値は適当だけどとにかく,ひとが何を愛で何に同情し何に心躍らされるか,そして何に全く揺さぶられないか,それは人の数だけあるに違いない。それだから,誰が何にどんな反応を示したところであるいは無反応だったとして,(面倒な話を抜きにすれば)誰も彼の反応に文句を刺すことはできない。

 

 以前『ブラック・レイン』という洋画を観たことがあって,僕は驚くほど何も感じなかった。周囲の人間は描写されている場面や風景,建物やその装飾などから読み取ったのであろう様々な解釈を垂れ流していた。しかし僕はそのどれもが腑に落ちず,どうやったらこんな解離した解釈を思いつくことができるのだろうと不思議だったしそれは今でも変わっていない。こういうことを言うと決まって「ではきみの解釈は何だ?」などと訊かれそうだけど僕は,何も感じていないのだから何も述べることはできない。すると今度は想像力の乏しさや当事者意識の欠如といったいかにもそれらしい言葉を持ちだされて干されてしまうのだろう。実に生きにくい世の中だ。

 

 わけのわからぬ妄想を垂れ流して満足気な顔をした人間に不当に扱われるほどつまらないことはない。多くの人間は僕には到底思いつかないような解釈を次々と垂れ流して見せる。それは彼らにしてみれば立派な解釈なのかもしれないが,そして彼らの中には然るべき根拠があるのかもしれないが,僕からしてみれば単なる妄想でありこじつけでしかない。宗教とさえ言えよう。つまり何も言っていないに等しい。

 

 何も感じないということはその部分に対する感性を持っていないということ。きみたちがそういう妄想の感性を持っているけれども僕の持つ感性を持っていないのと同じように,僕にはまた別の鋭い感性があるけれどもきみたちのような妄想力に長けた感性を持っていない。これに尽きるのではないか。

 

 解釈という名の妄想一辺倒で論文を書かねばならない昔の文学研究,をする人間の,何たる大変で何たる適当なことか。