『超一流の雑談力』

 という本を読んだ。こういう本はメモって何度も見返して日々実践していかなければ意味が無い。にも関わらず今まで何冊か読んだこの類の本は読むだけに終わっていたのでもったいない。他の本に比べて実践的なことが書かれているなという印象を抱いた。追記にいつも通りメモ書き。

 

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『数学に感動する頭をつくる』

 久しぶりの更新。大学は一時的に暇になってはいるけど社畜になってしまったので勉強も読書もあまりしていない。できていないのではなくしていない,これはつまり甘えか。

 

 タイトルにある本を読んだ。読者として想定されているのは恐らく中学受験を考えている親,それであって,かつ,子が小学校中学年以下といったところか。中学受験の事情は全く知らないのでこの本にどのような需要がどれだけあるのかはわからないけど,近くの図書館でたまたま見つけたので読んだ。

 

 例によって追記にメモを連ねる。

 

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見て感じること

 先日テレビで老人が「広島に来て(米大統領が)何も感じないのは有り得ない」という旨の発言をしていたが本当にそうか?政治的にはそうなのかもしれないが,それよりずっと以前に一人間としてはどうか。

 

 人が100人いれば感性は少なくともその5倍はあるだろう。5倍なんて数値は適当だけどとにかく,ひとが何を愛で何に同情し何に心躍らされるか,そして何に全く揺さぶられないか,それは人の数だけあるに違いない。それだから,誰が何にどんな反応を示したところであるいは無反応だったとして,(面倒な話を抜きにすれば)誰も彼の反応に文句を刺すことはできない。

 

 以前『ブラック・レイン』という洋画を観たことがあって,僕は驚くほど何も感じなかった。周囲の人間は描写されている場面や風景,建物やその装飾などから読み取ったのであろう様々な解釈を垂れ流していた。しかし僕はそのどれもが腑に落ちず,どうやったらこんな解離した解釈を思いつくことができるのだろうと不思議だったしそれは今でも変わっていない。こういうことを言うと決まって「ではきみの解釈は何だ?」などと訊かれそうだけど僕は,何も感じていないのだから何も述べることはできない。すると今度は想像力の乏しさや当事者意識の欠如といったいかにもそれらしい言葉を持ちだされて干されてしまうのだろう。実に生きにくい世の中だ。

 

 わけのわからぬ妄想を垂れ流して満足気な顔をした人間に不当に扱われるほどつまらないことはない。多くの人間は僕には到底思いつかないような解釈を次々と垂れ流して見せる。それは彼らにしてみれば立派な解釈なのかもしれないが,そして彼らの中には然るべき根拠があるのかもしれないが,僕からしてみれば単なる妄想でありこじつけでしかない。宗教とさえ言えよう。つまり何も言っていないに等しい。

 

 何も感じないということはその部分に対する感性を持っていないということ。きみたちがそういう妄想の感性を持っているけれども僕の持つ感性を持っていないのと同じように,僕にはまた別の鋭い感性があるけれどもきみたちのような妄想力に長けた感性を持っていない。これに尽きるのではないか。

 

 解釈という名の妄想一辺倒で論文を書かねばならない昔の文学研究,をする人間の,何たる大変で何たる適当なことか。

『思考の整理学』

 家に籠もって好きなことをやっている人間をかつては貴族と呼んだようだが,今ではニートと呼ばれてしまうらしい。今月の最初の方までは理学書に対峙し,その後,疲れたのか飽きたのかは知らず,小説や教養書の類を読む生活にシフトしていた。

 

 最近は,本を読むとき,机に向かっている。気になったところをすべて覚えていることができないから,たまにメモを取るために。小説だったら感性と共振した表現や,激しく同意を寄せた誰かの生き様など。

 

 今更,なんだけど『思考の整理学』を読んだ。先に挙げた中では教養書が最も近いのだろうけど,知識の紹介という役目は全く含んでなくて,著者の随筆と言った方がだいぶ正確だと思う。追記には,僕が取った様々なメモその他を連ねることにした。

 

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記録

 生きた証を遺したいと思った。かりに死にたいと思っても,世界から忘却されてしまうのは寂しい。あるいはただ,自分が好きで好きで,それでもまだ愛し足りなくて,ブログを書く自分,画面に向かう自分を作り出して,もっともっと好きになりたかっただけなのかもしれない。とにかく,ここにブログが立ち上がった。

 

 逃避を目的として,保身を目的として,あるいは純粋に,感性を共振させることを目的として,日々,床に伏せたり,机に向かったり,自然の中を駆け回ったりする自分の姿がある。他愛もないそんな日常を記録したいと思った。むしろ,目的を持った行動の最中に,何気なく思った・感じた・発見した別の小さなことごとの記録が中心になるかもしれない。最初の記事で今後の方針を述べたばかりに締めつけられては困るので,これで終わり。